「40歳を超えたら、男は例外なくすべて汚物である」を考える

心の仕組み

「40歳を超えたら、男は例外なくすべて汚物である」

このフレーズを最初に見たとき、笑うより先に、妙に納得してしまった自分がいた。出典は奥嶋ひろまさ氏が描いたマンガSPA!連載の「シジュウカラが鳴く頃に」。主人公は41歳独身、年収500万円の営業マン・鈴木大輔。自分のことを「汚物」だと蔑みながら、それでも今日もスーツに袖を通す。作品のコピーは「おじさんたちよ、胸を張れ」。自虐と応援歌が同居した味わいのある作品である。

このフレーズがSNSで拡散されたとき、多くのコメントに共通していたのは「他人事じゃない」という反応だった。中年男性の側が、自分を笑いながら自分に刺さっている。これはただのブラックジョークじゃなくて、かなり深いところにある感覚を言い当てているんじゃないかと思う。

正直に言うと、これを面白がっていられるのは、自分がちょうどこの年齢のど真ん中にいるからだと思う。他人事として笑い飛ばすには、いささか近すぎる場所にいる。

こういう感覚は、日本だけのものなんだろうか。

「汚物」は日本語だけの現象じゃない

調べてみると、似たような現象は中国にもある。「油腻中年(ヨウニー・ジョンニェン)」という言葉がそれで、直訳すると「脂ぎった中年」。2017年、作家の馮唐が発表した文章がきっかけで爆発的に広まった。太っていて不潔、身なりに構わない、自慢話や下ネタが多い、後輩に説教したがる——中年男性の「ウザさ」を凝縮した言葉として、今も中国のネットスラングとして生きている。

「油腻」も「汚物」も、単なる悪口を超えて、ある種の生理的な嫌悪感を含んでいるのが共通点だ。ただの「ダサい」「かっこ悪い」ではなく、皮膚感覚に近いところで拒絶されている。

面白いのは、老いに対する嫌悪感を進化心理学的に検証した研究があって、それがまさに中国文化圏を対象に行われていたことだ。そこでは、高齢者への嫌悪感は、病原体を避けるために進化してきた防衛システムとエイジズム(年齢差別)を結びつける要因の一つだと位置づけられていた。同じ研究は、この効果が個人主義的な社会、たとえばアメリカにもそのまま当てはまるかどうかは分からない、とも留保している。つまり、老いへの嫌悪という反応の土台そのものは人類に共通していそうだけれど、それがどれだけ表に出るか、どんな言葉で表現されるかは、集団の中での評価を重んじる文化ほど強く出る可能性がある、ということらしい。

実際、欧米にも中高年男性への否定的なステレオタイプはちゃんとある。ただしその中心は「不潔」「気持ち悪い」という身体的嫌悪より、「衰える」「頼りない存在になる」という能力・依存への不安の方に寄っている印象がある。あるいは老いた男性の性的な視線を問題視する「dirty old man」という言い回しもあって、これは日本の「おっさん構文」批判とかなり近い感覚かもしれない。方向性は微妙に違っても、「年を取った男」という存在そのものが、何らかの形で警戒・忌避の対象になるという構造自体は、文化を問わずかなり普遍的に存在するようだ。

なぜこんな回路が備わっているのか

進化心理学の立場から見ると、この嫌悪感には少なくとも二つの回路が重なっていると思う。

病原体回避のシステム

人間の「気持ち悪い」という感覚は、もともと感染症を避けるために進化した警報装置だ。皮膚の変色、体液、独特の匂いといった「不健康のサイン」に対して、理由を考えるより先に身体が拒絶反応を起こす。加齢は、まさにこのサインを大量に生み出す。しわ、肌のたるみ、そして匂い。日本では資生堂が1999年に、40代を過ぎた頃から男女問わず発生する体臭の原因物質「ノネナール」を発見し、この物質に「加齢臭」という名前を与えている。ここで重要なのは、これは男女問わず起きる生理現象だということ。なのに「加齢臭」も「汚物」も「油腻」も、社会的な語られ方としては圧倒的に中年男性に集中している。生物学的には性差のない現象が、文化的な語りの中では男性側に不均衡に貼り付けられている。この非対称性自体が、実はかなり興味深い論点だと思う。

地位不安の回路

祖先環境において、集団内での序列や評価は生存と繁殖に直結していた。追放されることは、ほぼ死を意味していた。だから人間の脳は、地位の低下や集団からの疎外を、身体的な脅威とほとんど同じ回路で処理するように作られている。年収500万円の営業マンが自分を「汚物」だと感じてしまう心理は、個人の弱さではなく、この地位監視システムが、現代の物差し(年収・肩書き・恋愛市場での評価)に過剰反応しているだけだと説明できる。

この二つの回路——病原体回避と地位不安——が、「中年男性は汚い」という一見単純な悪口の裏に、静かに折り重なっている。

「40歳」は本当に老いの始まりだったのか

ここまで「祖先環境では地位低下が死に直結した」という話をしてきたけど、一つ確認しておきたいことがある。そもそも人類の祖先は、40歳を境にバタバタ死んでいたんだろうか。

「原始時代の平均寿命は30〜40歳」という話はよく聞くし、数字自体は間違っていない。狩猟採集民の出生時平均寿命は約30年、他の生存様式も含めた全体平均でも約35年というのが実際の研究の数字で、18世紀半ばのヨーロッパとだいたい同水準になる。

でもこの数字のほとんどは、乳幼児死亡率のせいで下がっている。狩猟採集社会の子ども時代の死亡率は現代の最大100倍にのぼり、この時期の死が平均値を強烈に押し下げている。裏を返せば、15歳まで生き延びた人間の話はまったく違ってくる。人類学者Gurven & Kaplanの研究では、15歳を超えた狩猟採集民の最頻死亡年齢は72歳。20歳の時点でも、そこから期待できる残り寿命はだいたい55〜60年というのが典型的な数字だった。つまり「大人になった人間」にとって、60〜70代まで生きるのはむしろデフォルトで、40歳で死ぬのは不運な少数派に近い。

ただし、40という数字が完全に無意味というわけでもない。同じ研究によれば、死亡ハザードは10歳ごろまでに急低下したあと、40歳ごろまで低い水準を保ち、そこから加齢による死亡率の上昇——老化の加速——がはっきり現れ始める。つまり「40歳前後で人が死んでいた」のではなく「40歳前後から、体の劣化カーブが目に見えて立ち上がり始める」というのが正確なところだ。しわや匂いの変化といった老化のサインが実際に立ち上がるタイミングと、社会的な「おっさん扱い」が始まるタイミングは、偶然ではなく同期している可能性が高い。

さらに面白いのは、この年代の「地位」の実態だ。大型獣の狩猟のように技能と知識を要する生業では、成人後15〜20年ほどの投資期間を経てようやく収穫がピークに近づく。ある研究では、高齢の男性は筋力こそ20代後半でピークを迎えて以降落ちていくものの、戦術的な狩猟の知恵や植物の知識、集団の采配といった技能によって、60代になっても純粋な食料の供給者であり続けていた。つまり祖先環境において、40代・50代の男性は地位が下がり始める年代どころか、技能ベースの評価軸ではまだ上り調子だった可能性が高い。

だとすると、「地位低下への警戒システムが40歳前後の男性を汚物扱いする」という話には、少し補足がいる。祖先環境そのものは、40代の男を低く評価していたわけではない。技能と経験の蓄積で、地位はむしろ上がり調子だった。変わったのは物差しの方だ。現代社会が評価軸を力・若さ・新奇性に急速に寄せたことで、本来なら技能や経験で評価が上がり続けるはずの年代が、逆に劣位に転落する——というミスマッチが起きている、と見た方が正確だと思う。

貫禄が魅力だった時代

この「評価軸は動く」という話は、何も祖先環境まで遡らなくても確認できる。ちょっと前の日本を見るだけで十分だ。

昭和の大スター、石原裕次郎を思い浮かべてみるといい。日活は彼を「タフガイ」として売り出し、戦後の経済成長期に「もはや戦後ではない」を体現する象徴的なスターとして扱った。あの体格、あの顔立ちが「男の色気」として成立していたのは、単なる時代ごとの美的感覚の違いというより、もっと構造的な理由があると思う。

一つは、渋さが実際の権力・資産と直結していた時代だったこと。昭和の年功序列・終身雇用の下では、年齢を重ねること自体が収入・肩書き・組織内の決定権の上昇とほぼ自動的にリンクしていた。「貫禄のあるおっさん」の魅力は、顔や体そのものというより、その顔の背後にある稼ぐ力・組織内での力の代理指標として機能していた面が大きい。今は年功と収入・地位の相関がかなり崩れているから、渋さの側だけが取り残されて、単なる見た目の劣化として処理されるようになった。魅力が地位の代理変数だったのなら、地位との相関が切れた瞬間に魅力の方も一緒に暴落する。

もう一つは、当時は「みんな老けていた」ということ。日焼け、喫煙率の高さ、紫外線対策の欠如、スキンケア文化の不在で、実年齢より老けて見えるのが当たり前だった時代だ。比較対象になる母集団全体が同じペースで老けていたので、老化そのものが劣位のサインとして機能しなかった。今は美容医療やスキンケア、食生活の改善によって、同じ40代でも若さを維持できている人が可視化された形で大量に存在するようになった。比較の基準点が押し上げられたせいで、何もしなければ自然に老けるだけの人が、相対的に劣った側に見えるようになる。老化のスピード自体はそれほど変わっていなくても、比較対象の分布が変わっただけで、同じ老化がまったく違う意味を持つようになるわけだ。

もし裕次郎が今の時代に新人として出てきたら、おそらく同じようには売れない。ただそれは今の観客の目が肥えたからというより、彼を魅力的にしていた土台——年功と地位の相関、老いの共有された基準点——の両方が、この数十年でほぼ同時に消えたからだと思う。評価の物差しは、生物学的な事実というより、その時代の経済構造と、比較対象になる母集団の作りに強く依存している。

仏教が指摘する、もう一つの構造

ここまでは、なぜこの嫌悪感が「向けられる」側の話。でも仏教が面白いのは、その嫌悪感を「向ける」側にも「向けられる」側にも、実は同じ構造が働いていると見抜くところだ。

比較でしか自分を測れない「慢」という構造

仏教には慢(まん)という根本的な煩悩がある。伝統的には七慢という分類があって、慢・過慢・慢過慢・我慢・増上慢・卑慢・邪慢の七つに分けられる。面白いのは、この七つのどれ一つとして「素直に自分を劣っていると認める」という項目がないことだ。自分より劣る相手を見下す「慢」、対等な相手に対して自分の方が上だと思う「過慢」、明らかに優れた相手に対してすら自分の方が上だと思い込む「慢過慢」。そして一見謙虚に見える「卑慢」でさえ、実際は「はるかに優れた相手に対して、その差はそこまで大きくない」と、差を値切ろうとする心の動きだとされている。慢とは要するに、どの方向に転んでも「比較の中で自分の位置をどうにか確保しようとする働き」そのものであって、そこには純粋な自己否定の居場所すらない。

これを踏まえると、「自分は汚物だ」と笑いながら言う行為の見え方が少し変わってくる。それは字面通りの絶望というより、比較のゲームの中で先手を打つ動きに近い。自分から一番低い場所に飛び降りることで、他人から突き落とされる痛みをあらかじめ避ける。あるいは「そう言えるくらい自分を客観視できている」という、もう一段上の評価を密かに狙っている。どちらにしても、これは七慢のいう卑慢——差を値切る動き——にかなり近い。「汚物」というセルフツッコミは、自己否定の言葉を使いながら、実は比較のゲームから一歩も降りていない。

だから「お前は汚物なんかじゃない」と慰めることも、「開き直って汚物を名乗れ」と煽ることも、実はどちらも同じ土俵の上でのポジション取りに過ぎない。年収を上げる、身なりを整える、若々しさを取り戻す——これらもすべて「汚物じゃない自分」を証明しようとする努力であって、比較という土俵そのものからは一歩も出ていない。仏教が指し示しているのは、この土俵の外側だ。無我とは、比較の対象になるような固定された「自分」など、そもそも存在しないという視点のこと。

自己肯定感という、もう一つのワナ

ここでよくある処方箋が「自己肯定感を高めよう」という話だ。悪い提案だとは思わない。でも仏教の目で見ると、これもまだ危うい場所に立っている。増上慢とは、まだ悟っていないのに悟ったつもりになる慢心のことだけど、「自分には価値がある」と根拠なく繰り返し言い聞かせて確信を作ろうとする態度は、これに近い構造を持っている。比較のゲームで劣勢だという自覚を、別の物差し(内面の強さ、自己受容)にすり替えて勝とうとしているだけで、ゲームそのものからは一歩も降りていない。

じゃあ何もできることはないのか、というとそうでもない。自己否定でも自己肯定でもない、三つ目の場所が仏教にはある。

降りるという選択

進化心理学は「なぜこの嫌悪感が生まれるのか」を説明してくれる。祖先環境で意味のあった回路が、現代の物差しに対して誤作動を起こしているだけだと分かれば、少なくとも「自分の弱さのせいだ」という自己責任の物語からは降りられる。

でも、それだけでは足りない。「これは進化のバグだから気にしなくていい」と頭で理解しても、比較のゲームの中で「自分は勝っている側だ」と思い込もうとする限り、次はまた別の物差しで不安になるだけだ。地位も、若さも、清潔さも、いくら積み上げても、比較というゲームのルール自体は消えない。

ついでに言うと、この構造は別におじさんに限った話じゃない。若さで値踏みされる女性も、成果の数字だけで自分を測る若手も、フォロワー数やいいねの数で自分の輪郭を確認する人も、物差しが違うだけで同じゲームの中にいる。「汚物」という言葉が中年男性に特に強く刺さるのは、そこが偶然、比較というゲームの構造がむき出しに見えやすい場所だから、というだけかもしれない。

第一の矢と第二の矢

原始仏典に「箭経(せんきょう)」と呼ばれる短いお経がある。そこで釈迦はこう説く。人は誰でも、生きていれば痛みという矢に射られる。病気、老い、他人からの批判——避けようのない一本目の矢だ。問題はそのあとで、教えを知らない者は、この痛みに対してさらに自分で二本目の矢を放ってしまう。嘆き、自分を責め、「なぜこんな目に」「自分はダメだ」と心を痛めつける。一本目だけを受けた痛みと、そこに自分で二本目を重ねた痛みとでは、苦しみの総量がまったく違う。

これを今回の話に当てはめると、年を取れば体力は落ちるし、鏡を見れば老いのサインにも気づく——ここまでは、生き物である以上避けようがない一本目の矢だ。問題はそのあとに続く「こんな自分には価値がない」「もっと若く、もっと稼いでいなければ」という物語で、これが自分で自分に放つ二本目の矢になる。実際の苦しみの大部分は、こちらが作っている。

鈴木大輔が「汚物」だと感じる瞬間そのものは、たぶん止められない。地位不安の回路も病原体回避の回路も、何万年もかけて配線された自動反応だから、意志の力で電源を切ることはできない。でも、そこに「だから自分はダメなんだ」という物語を重ねて確定させるかどうかは、まだ選べる場所として残っている。第一の矢が刺さったと気づいた瞬間に、「また比較のゲームの矢が刺さったな」と見て取れるかどうか。これは自己肯定感を持てということではない。むしろ逆で、「刺さった」という事実を、良し悪しの判定なしにただ見るということに近い。仏教が「汚物かどうかを判定する物差し自体が、仮に置かれた虚構だと見抜く」と言うとき、指しているのはこの一瞬の見え方の話だ。「シジュウカラが鳴く頃に」の「おじさんたちよ、胸を張れ」というメッセージも、証明でも開き直りでもなく、この見抜きに近い場所を指しているんじゃないかと思う。

ただし、これは一度やれば終わる話じゃない。今日は見て取れても、明日はまた同じ矢に打たれて、そのまま第二の矢まで自分で放ってしまうかもしれない。仏教が「修行」と呼ぶのは、たぶんこの見抜きをその都度繰り返す作業のことで、一回で悟って卒業するようなものじゃないんだと思う。

40歳を超えたおじさんが「汚物」と呼ばれて笑いながら傷つくのは、進化がそう設計したからで、その最初の痛み自体に良いも悪いもない。ただ、そのあとに続く「だから自分はダメだ」という物語は、必ず放たなければならない矢じゃない。そこだけは、今日も選び直せる。

鈴木大輔は、今日もスーツに袖を通す。第一の矢は今日も刺さるだろうし、それを完全に卒業できたわけでもない。それでも、その痛みに「だから汚物なんだ」という結論まで自動で足さずに済んだ日は、たぶん昨日よりわずかに軽い一日になる。降りられた、とまでは言えない。それでも今日は、どちらの矢を自分で放つか、まだ選べるところに立っている。