そのむかし、海辺にバーヒヤという男がいました。僧侶ではありません。戒律を守っていたわけでも、瞑想を積んでいたわけでもない。ある日、いてもたってもいられなくなってブッダのもとへ駆けつけ、教えを乞います。
返ってきたのは、ほんの短い一言でした。『見るときは、ただ見るだけにしなさい。聞くときは、ただ聞くだけに。』
それを聞いた直後に、バーヒヤは覚りに至りました。そして間もなく、道端で牛に突かれて、あっけなく命を落としたと伝えられています。
なんとも不思議な話です。
一言で覚りに達し、その日のうちに死んでしまう。この逸話は、古い経典の中でも飛び切り鮮烈なものの一つです。ただ、読んでいると素朴な疑問も湧いてきます。たった一言でよかったのなら、どうして他の人たちは、何年も何十年もかけて修行するのでしょうか。そもそもバーヒヤがたどり着いた「そこ」とは、いったいどこなのでしょう。この記事では、その「どこ」と「どうやって」を、順にほどいていきます。
そもそも、何を目指しているのか
仏道が目指す場所を、いちばん短く言うと、「苦がほどけること」です。
ブッダ自身、自分が扱うのは苦と、その苦が消えることの、二つだけだと語ったと伝えられています。世界がどうできているとか、死んだらどうなるとか、そういう大きな話をしに来たのではなく、目の前で人が苦しんでいて、その苦しみが軽くなるかどうか、扱うのはそこだけです、と守備範囲を区切ったわけです。
ここでいう「苦の滅」は、痛みをゼロにする、という意味ではありません。渇きのように求めてやまない心が静まって、その先にある楽な境地に落ち着くこと。「消す」よりも「ほどける」に近い感覚です。この楽な境地のことを、涅槃(ねはん)と呼びます。
古い上座部の流れでは、まず自分自身の苦を見つめます。自分の心の中で何が起きて苦しみが生まれるのかを、丁寧にほどいていく。一方、後から広がった大乗の流れでは、その輪がぐっと大きくなります。自分だけが楽になっても仕方がない、周りの人たちの苦も一緒にほどけてほしい、と願う。ただ誤解しやすいのですが、これは自分を抜きにするという話ではありません。自分も含めて、みんな一緒に、と器が広がるのです。目指す方向そのものが変わるというより、その方向を、どこまで広く見渡すか。上座部と大乗の違いはそのようなところです。
苦をほどくために、何を身につければいいのか。
よくある思い込みについて触れておきます。仏の教えを「会得する」というと、お経をたくさん覚えて、教理に詳しくなることのように聞こえます。ところが、仏教でいう「わかる」は、それとは少し違います。お経を全部そらんじられても、それだけでは覚りとは呼ばれません。逆に、学問はほとんどなくても覚りに至ったとされる人もいる。バーヒヤなど、その最たる例です。
ここで目指されている「わかる」は、頭の中の理解というより、自分の在り方そのものが変わってしまうような、腑に落ちる見え方の変化のほうなのです。
このことを、古い経典が見事な喩えで語っています。大きな木を、外側から順に、枝葉、樹皮、白い部分、そして中心の芯、と分けていく喩えです。修行の道でいうと、名声や敬われることは枝葉にすぎない。戒律を守れるようになることも、心を深く鎮められるようになることも、まだ芯ではない。そして驚くことに、物事をありのままに見る「知と見」でさえ、この喩えでは芯の手前だとされます。では、芯は何か。その理解によって心がほどけ、揺るがない自由に落ち着くこと。それこそが、木の芯だと説かれるのです。
つまり「理解」は、ゴールそのものではありません。そこを通り抜けて、解放へ抜けていくための道なのです。
「仏道とは仏の教えを髄まで理解することだ」という感覚は、方向としてはとても近いのですが、さらに言うと、仏道が目指すのは、教えが骨の髄まで染みて、その人が変わってしまうこと。そう言うほうが、もう少し正確だと思います。
一気に届く人と、階段を上る人
冒頭のバーヒヤの話に戻ります。彼はなぜ、一言で覚りに至ったのか。
実は、この「一気に届くのか、段階を踏むのか」という問いは、仏教の中で千年以上も論じられてきた大きな論点です。一気に覚る道を頓、段階を踏む道を漸と呼びます。バーヒヤの場合は頓となるわけですが、これを「才能で修行をすっ飛ばした」と読むと、少しずれてしまいます。古い注釈は、彼が過去の長い積み重ねの果てにいて、最後のひと押しだけが要る状態だった、と説明します。つまり、バーヒヤが覚りに至ったのは、積み重ねを飛ばしたショートカットではなく、積み重ねが満ちきった、という扱いなのです。
そして、私たちの大半が歩むのは、もう一方の、階段を上る道、漸のほうです。
この階段は、初期仏教の頃からはっきり順序になっていました。まず身の振る舞いを整え、次に心を鎮め、そのうえで智慧を育てる、という順序です。各系統は、それぞれの登り方を用意しています。チベットのゲルク派には、次の世をよくしたい人、自分が輪廻から抜けたい人、みんなを救うために覚りたい人、と動機の深まりに応じて三段に分ける道筋があります。禅なら、坐禅を組み、問いと向き合いながら少しずつ進んでいく。呼び名も景色も違いますが、「体系に沿って一歩ずつ」という発想は各宗派で共通しており、わかりやすくいうと、多くの人は宗派ごとのカリキュラムに沿って進む、ということになります。
日本仏教の大きな一角を占める浄土の流れ
日本仏教の大きな一角を占める浄土の流れ、とくに親鸞は、この「自分の努力で会得する」というモデルそのものを、ひっくり返してしまいます。私たちの力では、どうにもならない。だからこそ、阿弥陀という仏の力に委ねる。ここでは、カリキュラムを修めて自分の手で掴み取るのではなく、むしろ、掴み取ろうとする手のほうを放すことが肝になります。頑張って握ろうとするほど遠ざかる、という逆向きの発想です。
「みんなが体系を踏破していく」が全ての仏道に共通すると断言してしまうと、この流れが例外になってしまいます。覚りへ至るには、努力で会得する道もあれば、努力を手放すことに賭ける道もある、ということです。
目的地の景色と、私が思うこと
仏道が目指しているのは、教えに詳しくなることではなく、教えが染みて人が実際に変わること。そして、その変わり方の中身は、苦がほどけて心が自由になること。ここは、上座部でも大乗でも、チベットでも禅でも浄土でも、言い方こそ違え、おおむね共有されています。
ここからは、私自身の受け止めです。
先に「仏道が目指すのは、教えが骨の髄まで染みて、その人が変わってしまうこと」と申しました。覚りとはそういうことであり、輪廻そのものを終わらせるとも表現されるわけですが、仏教の研究者は、実際の仏教徒の多くは「善い行いを積んで、より善い次の生へ」という手前の目標に向かっていて、「輪廻そのものを終わらせる」という一番奥まで正面から挑むのは、ごく一部だ、と指摘します。
「教えを髄まで」というのは、いちばん高い理想ですが、バーヒヤのようにそこに至る人もいれば、日々の勤めや役割の中でその道を全うしようとする人もいて、私たちの多くは、ゆっくり、それぞれの階段を上っていくわけです。
より善い次の生を願うことも、輪廻の終息を目指すことも、私には同じ一本の道の、どこまで進むかの違いに見えます。上るスピードや方法は人それぞれですが、その一歩を踏み出そうとする心持ちこそ尊く、仏道はそのいずれも肯定している。そのように私は考えます。
本文中の主な参照について
- 中部22「蛇喩経」(Majjhima Nikāya 22, Alagaddūpama Sutta)/パーリ。「苦と苦の滅のみを説く」という趣旨、および「筏の喩え」の出典。SuttaCentral: https://suttacentral.net/mn22(英訳:Bhikkhu Bodhi、Bhikkhu Sujato)
- 中部29「大心髄喩経」(Majjhima Nikāya 29, Mahāsāropama Sutta)/パーリ。木の芯の喩え。「知と見」も芯の手前であり、揺るがない心の解脱(akuppā cetovimutti)こそが芯・目的・終点であるとされる箇所。SuttaCentral: https://suttacentral.net/mn29(英訳:Bhikkhu Bodhi ―― “unshakeable deliverance of mind”)
- 増支部10-1「キマッティヤ経」(Aṅguttara Nikāya 10.1, Kimatthiya Sutta)/同11-1「キマッタ経」(AN 11.1, Kimattha Sutta)/パーリ。善き戒から段階を追って解脱の知見に至る、修行の階梯。SuttaCentral: https://suttacentral.net/an10.1 、 https://suttacentral.net/an11.1(英訳:Bhikkhu Bodhi、Ṭhānissaro Bhikkhu。両経は同じ階梯を十支/十一支で説く並行経で、後者は厭離と離貪を二段に分ける点のみが異なる)
- 小部・自説経1-10「バーヒヤ経」(Khuddaka Nikāya, Udāna 1.10, Bāhiya Sutta)/パーリ。樹皮衣のバーヒヤが、ごく短い教え(「見られたものにおいては、見られたもののみが」)の直後に解脱し、間もなく牛に突かれて没したと伝える逸話。SuttaCentral: https://suttacentral.net/ud1.10(英訳:John D. Ireland、Ṭhānissaro Bhikkhu)
本文で触れた頓と漸(一気に覚る道と、段階を踏む道)は、いずれが正しいかをめぐって宗派・時代ごとに議論が重ねられてきた主題であり、確定した結論があるわけではない点に留意しています。また、大多数が向かう「より善い再生」と、一部が挑む「輪廻の終息」とを分ける整理は、Melford E. Spiro『Buddhism and Society』(1970年)に代表される社会人類学的な区分を参考にしたもので、これは分析のための理想型であり、僧=前者・在家=後者と割り切れるものではない、という批判(Damien Keown ほか)も付されています。